初心者用 資産運用基礎知識
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有価証券信託について
保有する有価証券を信託銀行に信託すること。信託した有価証券を貸借市場等で貸出運用して収益をあげることを目的とした「運用有価証券信託」。このほか、保有している有価証券の管理、処分を目的とする「管理・処分有価証券信託」がある。
外国為替生まれといわれる。少年時代に修道院を追放された後、ギリシャ人錬金術師アルトタスの弟子となる(これはカリオストロ本人による回想録によるもので、アルトタスなる人物が実在したか否かは不明)。
ヨーロッパ中を旅し、多くの偽名を駆使して社交界に乗り込み、胡散臭い商売を繰り返した後、1777年、フランマソヌリ(英語ではフリーメイソンリー)に参入し、フランマソン(フリーメイソン)になる。後にフランマソンのエジプト起源説を唱え、自ら分派「エジプト・メイソンリー」を設立。
ロシア宮廷でのスキャンダルや、マリー・アントワネットを巻き込んだ有名な詐欺事件「首飾り事件」(1785年)によって失脚。
外為を転々とすることとなるが、1789年、ローマで異端の嫌疑をかけられ逮捕。宗教裁判にかけられ、1791年に終身刑を言い渡された。1795年、獄死。
しかし、その死後も生きて地上を漂泊しているという噂が根強く、ロシアにまで流布した。
スペイン王女マリー=アンヌ・ド・ヌブール(Marie-Anne de Neubourg)と貴族メルガル伯爵(comte de Melgar)の私生児といわれている[1]。その人生を通じて享受していた経済的な安泰や高度の教育・教養はこの出自によるものが大きいと考えられる。教養についていえば、同時代人には、化学に限らず様々な分野の知識が豊富で、巧みな音楽家であり、優れた画才を示したことが評価されている。
サンジェルマンは1746年までロンドンで過ごした。その後12年間については活動が確認されていないが、化学と錬金術の研究のためにドイツで隠棲していたとする説、およびインドやチベットまでを含む旅行に出ていたとする説がある。後者の説についてはその旅を証拠づける史料は皆無だが、東洋世界について非常に博識であったことは事実である。
1758年のはじめにパリに移り、王の営繕官(directeur des Batiments du Roi)であったマリーニュ(Marigny)に対して研究室および作業場のために王族所有の施設を使わせてくれるように要請する書状を出している。この中で、その交換条件としてルイ15世に「人類が知る中で最も豊かで希有な発見」をもたらすと約している。マリーニュは無人となっていたシャンボール城をあてがい、サンジェルマンはこの城と付属施設に助手、使役人を住まわせ、研究室を整えた。
サンジェルマンはシャンボールよりはパリにいることの方が多かった。ポンパドゥール公爵夫人に面会し、夫人の紹介により王ルイ15世とも面識を得ている。王はただちにその聡明な人柄を評価し、親しい関係を結ぶこととなった。
サンジェルマンは王と親しい関係を結ぶが、ルイ15世の重臣ショワスル公爵(duc de Choiseul)は彼を疎み、信頼を貶めるべく策を巡らせた。ショワスルはゴヴ(Gauve)という名の道化を雇い、サンジェルマンの振りをさせたという。ゴヴはサンジェルマンの風体でさまざまなサロンに姿を見せ、ありそうもないほら話を吹聴した。アレクサンダー大王と杯を交わしたであるとか、イエス・キリストに恐ろしい末期を予告された、などといった大言壮語である[2]。
FXは直ちに暴露されその正体が明かされることとなったが、ショワスルの企みはサンジェルマンをペテン師に貶めることにはならず、むしろ逆に威光を増すことになり、ミステリアスなオーラを与えることになった。
ショワスルは1760年になってようやく、サンジェルマンをスパイ容疑で告発することによって厄介払いする。この結果サンジェルマンは名誉を損なわれてオランダへ逃れることとなった。これ以降、サンジェルマンの足跡はイギリス、イタリア、ロシア、ザクセンおよびプロシアで確認され、さまざまな地で顔料と色彩についての研究を披露しようとつとめたことが分かっている。
1766年、プロシアの王フリードリヒ2世の庇護を受けるが、翌年にここを発ってバルト海に面したゴトロップに至り、ヘッセ(Hesse)の領主のもとに身を寄せた。1784年2月27日にこの地で亡くなっている。親しい関係を保っていたヘッセの領主によれば93歳であったと伝えられている。
サンジェルマンにはさまざまな噂がつきまとったが、生前に敢えてそれを否定しなかった為もあり、稀に見る特異な人物として歴史に名を残すこととなった。彼が人類普遍の夢である不死の象徴として語られることも、こうした伝説の流布を助長したと考えられる。以下はそうした伝承の代表的なものである。
宝石を散りばめた衣装をまとい、丸薬とパンと麦しか口にせず、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、アラビア語、中国語に加えて仏・独・英・伊・葡・西の各国語を話したといわれる。身なりに気を使い、クラヴサンとヴァイオリンの名手であり、作曲もこなした。また化学と錬金術に精通しており、ついには不死を可能にする著作をものしたともいわれる。
また、カリオストロが所有していたとされる実在の18世紀の秘伝書La Tres Sante Trinosophieの著者であるといわれるが、確たる証拠はなく、しばしば反論の対象となっている。また貴石・宝石の類いにも非常な関心をもって多くを所有していたといわれ、ダイアモンドの傷を消す秘法を身につけていたとされる。
前世の記憶とそれに関連する知識がある、あるいは、常軌を逸した長寿をもたらす秘薬をもち、その結果2000年とも4000年ともいう驚異的な記憶を有していたといわれる。カナの婚礼やバビロンの宮廷を巡る陰謀などを語ることができた。ヴォルテールは1760年4月15日のフリードリヒ2世に宛てた書簡で、サンジェルマンについて「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」であると書き、フリードリヒ2世は彼を「死ぬことのできない人間」と記している。ニコラス・シャンフォール(Nicolas Chamfort)によれば、サンジェルマンの使用人に「あなたの主人は本当に二千歳なのですか」と問うたところ、彼は「それはお教えすることができません。わたしはたった三百年しかお仕えしていないのですから」と答えたという。
ポルトガル系ユダヤ人とも、ルーマニアのトランシルバニア地方にあるラコッチー王家の王位継承者王家に縁の人物(ただし、当時ルーマニアは国家としてはまだ存在していなかった)ともいわれ、自分の年齢を二千歳とも四千歳であるともし、ソロモン王やシバの女王と面識があったとも語ったとされる。十字軍では、パレスチナにおいて、イングランド王リチャード1世とも会話したともいう。また「自分は不老不死なので、霊薬を口にする他は食事は必要としない」と言って、実際に人前では全く食事をしなかったとされる。
作曲家ラモーは1710年にサンジェルマンに会ったと記している。またセルジ伯爵夫人(comtesse de Cergy)は同年、大使夫人時代にヴェニスで彼に会ったが、約40年後に再び会った際に全く年を取ったように見えなかったとされている。サンジェルマンは自らの姿を眩ますことができ、また催眠術を身につけていたとされるが、これがこうしたさまざまな噂の発端となっている可能性もある(当時、催眠術は夢遊病や動物磁気による催眠現象に結びつけて考えられていた)。